このひと坂のヒト

このひと坂のヒト・ヤマモトヨウコさん

花柳界が現役で活動している街、神楽坂では、夕暮れどきにお座敷に急ぐ芸者さんを見かけることがあります。 そんな芸者さんたちの姿をはじめ、石畳や黒塀の料亭、商店主や職人さんたちなどを、23年にもわたって撮り続けてきたヤマモトヨウコさん。 イタリアやシルクロードなどに触発された作品も精力的に発表されているヤマモトさんの原点ともいえる神楽坂への想いについてうかがいました。

――― まずは神楽坂との出会いについてきかせてください。


 1983年でしたが、当時通っていた写真学校の課題制作で題材に困っていた時、講師の先生が案内してくれたのが最初でした。 実は当時、私は市ヶ谷に住んでいたのに、神楽坂に足を踏み入れたことはがなかったんです。 その翌日、ひとりで神楽坂に戻って撮った最初の作品が「はじめの一歩」です。

――― 初めて訪れた神楽坂の、どんなところに魅かれたのでしょうか。


 当時の神楽坂には、まだまだ古い街並がたくさん残っていました。 東京の街はもうビル化しているのに、ここだけポッと空気が違う。 なにより黒塀や石畳にモダニズムを感じて、「まるでパリみたいだな」と思ったんです。 丁度その時に腰痛を煩っていて、ゆっくりゆっくりと歩いているといろんなものに目が行くんですね。(笑) それから夜に路地で撮るようになり、歩いていると好きな溝口映画のような陰翳の世界を感じたり,料亭の建築や雰囲気に引かれました。 初めの二三年は、通りの三味線屋さんや足袋屋さんなどの写真も撮らせてもらいましたが、 そのときはお願いするときに声がかすれて、なかなか言えなくて・・(笑)。 その頃は若い子が来る街ではないですから、私は珍しかったと思います。 鳶の永楽家の頭が注連縄(しめなわ)を作って、正月飾りをつけて回るのに付いて行ったり、お獅子舞と回ったり、 割烹の板場で撮らせて戴いたり、周五郎の小説にでてくるような人に出会ったり、とても親切にして戴きました。
 学生時代に外国へ旅行に行ったり、海外を回るお仕事についた頃でしたので、 「自分は日本人なのに日本をよく知らない。日本をもっと知りたい」という時期だったことも動機だと思います。 私達の世代は欧米文化の世代ですが、幼い頃、私は結構日本の文化が好きでした。 なにしろ昔は植木屋さんになりたかったくらい(笑)ですし、物心つく前から日舞を習わされていましたので、 花柳界には全く縁のない無粋な育ちなんですけれど、自然に入っていけました。 家族でしょっちゅう実家の近くの京都奈良に出かけていたこともありますが、 はじめて神楽坂を訪れた時には、原風景というか、記憶が蘇ってきた気がしたんです。 それは子供の頃によく訪れた祖父の家。江戸末期の建物なのですが、障子の丸窓に竹の影が揺れている様子や、縁側から見る庭の風景、 欄間の水墨画のような風景を見ていろいろ想像したりといった記憶ですね。多分赤ん坊の頃そこに寝かされていた時のものだと思います。 神楽坂を歩いていると、まるで記憶の玉手箱を明けたような感じになりました。

――― そして芸者さんたちの写真も撮るようになるわけですね。


三年ほど午後三時半から九時半まで路地に立っていましたが、当時の路地は板前さん、配達の人とか芸者さん。それとお客さんしか通りませんから、路地に立っていると(不審に思われ)いろいろ聞かれて、かなり疑われましたね(笑)。花柳界のことは何も知らないけれど、遠音の三味線が聞こえて来たり、料理屋さんの勝手口から音がしたり、猫が様子をみにきたり・・。で、家に帰ると谷崎(純一郎)の「陰影礼賛」などを読んで、構想が膨らんできて眠れなくなるぐらいでした。三年目の、ある朝、路地でお稽古に向かう芸者さんをとらせてもらって、写真をさしあげたら踊りの会の切符を頂きました。それから半年ほどして、寒くてしゃがみ込んでいたら、おにぎり屋さんの「わかまつ」のおばちゃんが「家に入ってお茶飲みな」と言って下さって、それがきっかけで、突然、おばちゃんが「ついておいで」というのでついて行くと、隣の料亭「志のだ」のお座敷を撮らせて戴く機会を戴きました。何分かの短い時間でしたが、その時の芸者さんの幻想的な美しさが忘れられなくて、それから見番を教えて戴いて、お稽古を撮らせて戴くようになりました。写真学校の終了展の時に、写真の師である田中雅夫先生(*注1)に「テーマを女に絞りなさい」との助言をもらい「かぐらざか女人日記(おんなにき)」というタイトルをつけて戴いたのです。実はその時、私は「先生、そんな古臭いのイヤダァ」なんて言ってしまったのですが、田中先生は「これは〈にっき〉ではなく、日記文学としての〈にき〉なんだよ。『男もすなる“にき”を女もしてみんとて…』の〈にき〉なんだ…」とおっしゃったんです。それで取り組み始めてからは、いい作品を残したい一心でお稽古場にも通い続けました。実はいつまでたってもなかなか満足のいく写真が撮れなくて、「まだまだ」と思っているうちに23年がすぎてしまった…というのが本当です(笑)

――― ずっとこの街を撮り続けていらっしゃるわけですが、この20年ほどで街もずいぶん変貌したのではないですか。


 神楽坂らしさ…というか、ここの独特な風情や雰囲気が失われていく、という印象は受けますね。花柳界がある街は、もともと独特な雰囲気を持っていると思いますが、街の変化と共に人情も変化しているように思います。それから、以前は花柳界と街に暮らす人たちとはあまり交流が無かったような印象があります。なにしろ十年前に「かぐらざか女人日記」の写真展をした時には、街に暮らす人たちが来て、見たことがない世界だと言われましたから。(笑)いろいろなことが広く知られるようになったのは2000年以降辺りからじゃないでしょうか。それはたとえば花柳界が開かれたり、街をもり立てようという動きの結果だったりすると思いますけれど。
 単なる和風な街でもない、私が最初にパリを感じたような、神楽坂らしい独特のムードがあるところは今でも変わらないですが、初めて撮った日から通った喫茶店「パウワウ」が理科大のビルの建設で閉店を余儀なくされたり、料亭さんの跡にビルが建設されていたり…、現実には大きく変化しています。いろんなご事情はあると思いますが、法的に「景観を守る」ことが実現しない限り、神楽坂の魅力が損なわれてしまうと危惧しています。

――― ところで1月からスタートするこの街を舞台にしたドラマ「『拝啓 父上様』で、ヤマモトさんの写真が登場するそうですね。


 ええ、タイトルバックに使われる写真を撮らせて戴いております。大好きな倉本聡先生のドラマですからね、そりゃあやりたいですよ(笑)。しかも23年間撮り続けた街の話ですから。最初にドラマの監督がタイトルバックを写真で構成するというアイデアがあって、そのあとまるで巡り合わせのように参加することになったのですから不思議ですね。
 考えてみると、路地に立ち尽くしていたあの頃から、ずうっととこの街を見続けて、長い時間を過ごしてきました。この数年間、海外の美術館や神楽坂地元のエフさんやアグネスホテルさんでも花柳界の写真で個展を開いて戴きましたけれど、ギャラリーマンテンで10月に開催した写真展は、最初お話を頂いたときには正直もう終わりにしようかなと思ったのですが、現実に大きな街の変貌に直面している今、自分にとっても街の魅力を考え直すいい機会だし、他の人にもそれを知ってもらい、佇まいを守って欲しいという気持ちがあって、最初から現在までの街の変遷と人物の写真で構成させて戴きました(個展「神楽坂、人と建築がおりなす舞台」)。その個展の後、テレビの台本を戴いてからわかったのですが、ドラマの内容にもまたビル賛成派と反対派がでてきて、読んだ時、傲慢かもしれませんが「自分は撮る運命にあったのかもしれない」と思いましたね。(笑) 
個展を産経新聞が取材して下さった時、私は「神楽坂が神楽坂でなくなってしまう」とお答えしましたが、既に書かれていた倉本先生の脚本の中にも偶然同じ台詞がありまして、非常に驚き、「ああ、街の変貌を残念に思っている、長く神楽坂を愛する人がたくさんいらっしゃるんだな。」と、思いました。
こんなご縁から、私もその一人としてドラマの映像に参加させて戴けるのは光栄ですし、張り切っていますが、スタッフの皆様の暖かいご協力に対して、ご期待にそえる写真がとれるかどうか、日々全力投球あるのみ…という感じですね。なにしろ撮影の合間に「ヨーコタイム」というお時間を戴いて、演出状況で撮らせてもらえる。この街ではずっと演出することなく自然な瞬間を撮って来た私ですから、これも一つのチャレンジですよね。路地に水をまいて下さいといえば撒いて下さるし、素敵な役者さん方が注文に応じて下さるんですよ! (笑) そしてドラマの制作チームの皆さんからは、個展をご覧になって「モノクロ写真で」というご要望を戴きましたので、銀塩写真からデジタルに変貌している今だからこそ、あえて写真本来の表現をもつ銀塩写真を暗室にこもってプリントを仕上げています。手間とコストのかかる銀塩写真ですが、デジタルとの違いがテレビの映像で反映されるかどうか…その点はわかりませんけれど(笑)

―――あらためて、神楽坂の魅力。そして今、坂の町に思うことはありますか


 これだけ個性がある人たちが住んでいて、風情ある佇まいがある。そんな街が東京のど真ん中にあるっていうだけではすごく面白いことじゃないですか。古くからの生業の人々がいて、街の建築がある。この街だからこそ、こういう人々が生きている…という、人と建築の関係性もあると思います。ドキュメンタリーとして淡々と撮るのが私の仕事かもしれませんが、住民でもあり、長く神楽坂を愛し見つめ続けて来た一写真家としては、神楽坂らしさを守って戴きたいですね。


(*注1)田中雅夫氏:戦前から戦後にかけて活躍した写真評論家、写真家。写真家の浜谷浩氏の実兄で、土門拳氏、木村伊兵衛氏の盟友として活躍した。国立博物館技官を経て日本カメラ編集長。写真130年史(著)、筑波万博写真美術館の監修、世界写真全集などの編集にも携わるなど日本写真界に多くの功績を残している。


ヤマモトヨウコさんのHPはこちら http://photo-yoko-yoyo.com/


文章・写真 渡部晋也/協力 栗田杏子