◎ お生まれは山形でしたね。

「中学時代の写真がコレ」
米沢です。もともとは学校の先生になるつもりだったんですよ(笑)。ここに写真がありますがね、中学の頃にはヴァイオリンなんか弾いてましたよ。結局音楽学校は中退しちゃったんですが、その頃には代用教員などもやりましたよ。声楽もやりましたよ、「サンタルチア」なんかのイタリア民謡を歌ったものです。
◎ それがどうして常磐津の世界に飛び込むことになるんですか
音楽学校にいる時分、親父が倒れましてね。それで一回米沢に戻るんです。その後、戦前の満蒙開拓事業で活躍した故 加藤完治先生が米沢を訪れた時、お願いをして書生ということで東京に連れて行ってもらったんです。かばん持ちですね。そうしているうちに日本の芸能をやるべきだと勧められまして、柳橋にいらっしゃった常磐津の三味線方の家元で、先代の故 岸澤式佐さんの内弟子に入りました。でも私はやっぱり唄をやりたかったので、結局、常磐津千東勢太夫師匠に弟子入りするんです。もう色々なことを教わりましたね。それでお師匠の傍で三枚目としてずいぶん舞台に出ていました。初舞台も歌舞伎座でした。その時は四枚目だったんですが、舞台の上で頭が真っ白になっちゃって、もう何が何だか…。唄っているんだかどうだかわからない(笑)そんな思い出があります。

◎ 東京の歌舞伎座だけでなく地方の劇場にも出演されていますよね
ええ、大阪、名古屋。歌舞伎の仕事だけでなく踊りの仕事でも全国各地に行きました。大阪で武智歌舞伎を初演した時は劇場に泊まりこんで自炊して暮らしましたが、まあ蚤やシラミがひどくてね。ずいぶんと難儀しましたよ。まだまだそんな時代でしたね。
◎ 昭和30年代ごろは、本当に歌舞伎のお仕事が多かったんですね。
ほとんど出てましたね。その他に踊りの会とかね。花柳、藤間、坂東、西川…ほとんどの家元さんの会に出ていました。
◎ ご結婚されたのもその頃だときいていますが
…いつのまにか、なっちゃったみたいですね
◎ いつのまにかですか?(笑)。
(おかみさんが横から)いたのよぉ。いつのまにかね。
だから私たち、結婚式なんかしていませんよ。

◎ 千代太夫さんが舞台を務めて、その一方でお店を開かれる訳ですね。最初は池袋だったそうですが。
おでんがメインの「千代の店」という名前の店を昭和45年に開きました。役者さんにも良く来て頂いた店で、(尾上)菊五郎さん、梅幸さん、今の中村勘三郎さん、当時は勘九郎さんね。そして柳家小さん師匠の御一門とか落語家さんも沢山来てくださった。池袋演芸場の帰りに寄って頂くわけです。その頃は歌舞伎座に良く出ていましたが、時間があれば築地で魚を買ってさばいたりもしたものです。でも僕はお師匠さん(常磐津千東勢太夫)専門だったから、お師匠さんが亡くなってからはめっきり出番は減りました。それでも踊りの会とかお稽古とか、ずっと常磐津は続けています。当時は三越劇場やいいのホールなどでもリサイタルなどをやりましたしね。
◎ お話の中に色々なひとの名前が出てきますね。
私の会にも色々な方が出てくださいました。リサイタルのパンフレットの表紙に尾上梅幸さんが書いてくださったりね。こっちの表紙の狸の絵と字を書いてくださったのは柳家小さん師匠。小さん師匠にはほとんど出ていただいたんです。一門の皆さんで、唄や踊りでね。口上を務めて頂いたこともあります。逆に(小さん)師匠が吉原の松葉屋さんで落語の会をやるから、常磐津で出てくれと頼まれたこともありました。
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