このひと坂のヒト・ジャグラー 宮城道雄さん

居宅の前にて ©宮城道雄記念館

◎ 宮城道雄さんの「春の海」といえば、お正月の定番曲として聴いたことのない人はいない、といえるほどの曲ですね。ところが一般的には、宮城さんがそれ以上に日本の音楽に対して大きな功績を収めていることが知られていないのでは、と思うのですが。

千葉:確かに「春の海」がお正月の定番というイメージはあるでしょう。でもベートーベンの「第九」だって年末定番のイメージがありますからね。そもそも一曲でも皆が知っている曲だというのはすごいことですよ。お箏の世界では、まず現在につながるお箏の基礎を作った人として八橋検校(1614-1685)が近世箏曲の祖、とされています。それに対して宮城については箏曲中興の祖、とする人もいます。つまり明治という時代になって、日本の伝統音楽がどうしても日陰になりつつあった時に、もう一度「日本の音楽は素晴らしい」ということを日本人全てに再認識させた人、と思ってもらえばいいでしょう。

◎ 宮城道雄作品は現在も弾く方が多いと思いますが、代表作というか、よく演奏される曲はどんなものがありますか。

千葉:まずは「水の変態」ですね。ほかには「手事」や「瀬音」とかも多いです。面白いのは、好まれる曲というのが時代によって違うことです。宮城が活躍した時代、大正期には歌曲が好まれ「せきれい」とか「花園」等が人気でした。でも今それらの曲を聴くと、大正時代の洋服をきているような、そんな印象を受けます。つまり宮城はそれだけ流行的要素の強い曲も作っているということなんです。芸術性を高めるだけでなく、先ほど話した通り、日陰になっていた日本の伝統音楽を、まず一般大衆に広めたかったということです。そういった曲は当時なら流行ったでしょうが、今聴くとちょっと古臭く感じる訳です。一方で「水の変態」のように、時代を超えて残って行く芸術的作品もあります。いずれにしても今現在、よく演奏される曲が今後も残って行くことになるでしょう。

◎ 「水の変態」は処女作であり、あの伊藤博文がその曲を聴いて感動したという話が残っていますね。なんだか凄いスケールの話ですが。

千葉:でもそれは全くの偶然の巡り合わせだったんですね。当時の宮城は韓国で暮らすものすごく貧しい少年でした。宮城が暮らしていた仁川(インチョン)は当時軍港で、伊藤は日本に帰るためにたまたまそこに立ち寄った訳です。そこの料亭で、女将がすごく箏の上手い少年がいるから、ということで急きょ呼ばれた訳ですね。この時のことを宮城は随筆に書いています。あまりに貧しくて着るものがなく、自分には大きな親の着物にあちらこちら上げをとって着たら、まるで袋を着ているみたいになってしまったという話です。そうして出かけて行って、自作の「水の変態」を演奏しました。そこで伊藤も凄いのは、その才能を見抜いて連れて帰ろう、と思ったところでしょう。結局、その後伊藤が暗殺されてしまい、この話はなくなります。この時に宮城は、もうだれも頼ってはいけないのだ、と思ったとやはり随筆に書いています。

◎ 素人考えですが、箏曲というと伝統曲ばかりというイメージがあるのですが、新しい作品は盛んに書かれていたものなのでしょうか。

千葉:当時、大阪では明治新曲というのが流行っているように、作曲自体はポピュラーだったとおもいます。ただ、「水の変態」というあれほどの曲をあの年齢で作ってしまうところが普通ではないでしょう。ところで作曲に関してですが、誤解されると困るのですが曲は昔から沢山作られているんです。それでいいものだけが残っているわけです。古典曲といっても、それが生れた時代では現代曲だった訳ですから。


©宮城道雄記念館

◎ その宮城さんは明治27年神戸生まれ。13歳で韓国に渡っていますね。

千葉:お父さんが外国系の会社に勤めていた関係で、宮城は神戸の居留地で生れています。実は生れたこの場所もポイントで、宮城は洋楽を普通に聴ける環境で生まれ育ったということなんです。また韓国に行ったことも大きな要素ですね。そこで軍楽隊の人に出会うのですが、昔の軍人は結構尺八を演奏する人が多かったですから、箏・三絃と合わせるので宮城が呼ばれた訳です。そこで逆に宮城は西洋の楽器を触らせてもらったり、演奏会に行ったりという機会を得るんです。韓国には父親に呼ばれたんです。父親は韓国で一旗揚げようと思って失敗し、それで宮城を呼び、宮城が箏・三絃を教えて一家を支えていたんです。しかしまだ少年時代ですから、もう大変だったと思いますよ。当然自分の修業ができなくなる。そうしてなにか新しい曲を弾きたくなる。それで作曲をするようになり「水の変態」へとつながっていくのです。

◎ ここまでお話を聞いて、あらためて確認するのですが、この少年、つまり宮城さんは盲人ですよね。何事においてもいろいろな困難があったと思うのですが、生涯それを感じさせない活躍はすごいことですよね。

千葉:すごいですよね。しかも宮城の随筆を読むと、学校というものに生徒として通ったことはなかったんですね。行きたくとも小学校にも行けずに校門で泣いたとか、読んでいると涙が出るエピソードが沢山あります。それに当時、盲人の進む道としては地歌箏曲と鍼灸・按摩の道がありましたが、お父さんが地歌箏曲の道に進ませたのもポイントのひとつだったでしょうね。