◎ まずは先生が神楽坂に関わるようになったきっかけから教えてください。
僕は静岡県出身ですからね。神楽坂との関わりは、たまたまうちの奥さんが横寺町に住んでいたということなんですよ。彼女の実家が横寺町、そしてこの建物(アユミギャラリー)は彼女のお父さん(高橋博/1902-1989)の建築事務所でした。僕も建築を志した頃、そんな具合にこの場所と出会いましたからいろんな意味で偶然の偶然ですね。ここに来てもう30年ほど経ちます。この建物は2007年で60周年を迎えましたから、その約半分くらいを過ごしたことになります。と言っても、神楽坂のまちに対しては、あまり貢献していないんじゃないかな。ここで暮らして、自分の活動の拠点として矢来町と横寺町あたりをうろうろしてきたということでしょうか。
◎ ところで、先生は二階を建築事務所にして、一階がギャラリーという形でやって来られていますよね。
事務所も画廊も1984年から始まったんです。それまでは、一階は高橋建築事務所、二階は僕たち一家の住まい兼職場でした。高橋ビルディング(1991年竣工)の階段室あたりまで材料倉庫がありましてね、そこに住まいが二階の渡り廊下でつながっていた。職住渾然一体型の木造の建物が二つ。つまりアユミギャラリーの建物ともう一つの木造建物が二階でつながっていた。わかりますか。
◎ なるほど。バブル期の1991年に高橋ビルディングを建てたということになりますが、普通の考え方だと全部更地にして、新しいものを建てるということになりますよね。でもこのアユミギャラリーの建物はあえて残した、ということですよね。
僕の考え方の方が普通だと思うんですがね。スクラップ&ビルドの時代はもう終わったと思いますよ。時間を積み重ねてまちの記憶のよすがになっている建物を維持しながら環境や景観を創っていくということがもっとあたりまえにならないといけないですよね。

◎ 残して創るということですね。
この木造の建物はどうしても残したいという高橋家の思いがありましたからね。僕もまったく同感でした。これを壊したら自分を壊すことになるというぐらいの気持でした。
◎ この辺りはほとんど空襲で焼け野原だったそうですね。
そうなんです。高橋春人さんという画家が神楽坂に住んでいましてね。彼は戦災直後の神楽坂の風景を克明に描いていました。アユミギャラリーでも彼のその作品を展示したことがあるのですがとても貴重な記録でした。そのスケッチ群によるとまさしく焼け野原、瓦礫の山のようで、坂道だけがうねっていました。そんな時代の中でいち早くこの建物、つまり高橋建築事務所は建てられました。
◎ 高橋博先生のアトリエということですね。
父は1947年からここを拠点として仕事をしてきたわけですよね。やっぱり愛着があったというか……、自分が生きてきた証しともいえる建物でしたから、「残せるものなら残したい」と言っていました。僕にしても、父親の仕事場だったのだから残しておきたいということが当然ありますが、もう一つ、この建物がまちにとって、ある種の小さなランドマークのようになっているということを感じていました。ビル建設の話はギャラリーを始めてから5年ぐらいの頃だったけれど、その間に、まちの人たちからこの場所が親しまれつつある、みんなに愛着をもたれている、浸透しつつある、という実感をつかんでいました。
◎ 先生の著書【※1】にも「建物はまちに対して責任がある」という想いと、神楽坂の人たちからの声に支えられたとありますね。
ギャラリーを利用してくれた人はもちろん、見に来てくれたひとも「いい空間だね」と結構言ってくれていましたし、簡単には壊すわけにはいかない。経済合理主義でものを考えてはいけないですよね。それでこの建物を残すことを前提にビルの計画案を考えました。

◎ ロマンチシズムで押して行ったのかと思いがちなんですが、きちんと対案、つまり説得材料をつくられたんですね。
僕はロマンチストでもセンチメンタリストでもないんじゃないかな。どちらかといえばリアリストですよ。現在に最上の価値をおく。でもその現在は、過去という時間と、未来という時間と緊密に繋がっている。そのことを大切にしたいという思いが常にあります。
◎ 「現在」主義者といってもいろいろいますよね。現在(いま)さえがよければいいんだというような感覚で、神楽坂でもどんどん高い建物が建っていく。
堰を切ったようにという表現があたっていますね。
◎ 先生は当時、武蔵野美術大学で講義されていますね。
大学では「近代文明論」という講座を持っていたのですが、建物の保存に絡んだ内容も多かったですね。学生たちに話している内容と僕がこの建物についてどうするかというのは、やっぱり同一線上の問題でした。
これを難なく取り壊すとなれば、学校で僕は何をしているのか?という自己矛盾に陥る。他のまちの事例では「がんばって残して行きましょう」と公言しているのに、依って立つ足元がやられちゃうのはまずいですよね。自分ひとりではなかなか力がなくて無力だけれど、最低限守って行かなければならないことがある。
◎ 先生は無力ではないですよ。大きな影響力を持っています。さてこうして残ったアユミギャラリーですが、この建物のスタイルは洋館ということでしょうか。設計された高橋先生がイギリスに留学されていた関係で、イギリスのテイストも入っているとか。
まあ洋館ですね。そうはいってもどことなく和風な感じもするかもしれませんが。イギリスのカントリーハウスの影響もかなりありますね。たとえば方杖であるとか、細かな木彫の装飾とか、ハーフティンバーの外壁や出窓の膨らみや建具の意匠等、そこかしこに若い時代の留学経験が生きている。
◎ 逆に引き戸なんかは日本のものですよね。
そうなんですよ。イギリスのカントリーコテージ一辺倒ではないんですね。8年間のロンドン滞在がかなりものをいっているんですが、日本の町家や農家のイメージもあわせ持っている。稀有な建築家だと思っています。
◎ 手斧(ちょうな)とかノミを使った手仕事の感じを残しつつ、イギリス的な、といってもアーツアンドクラフツ的なものと日本的なものが、心地よく同居していますね。
その通りです。感心してしまいます。ここの2階(鈴木喜一建築計画工房)や我が家(横寺の家)もそうなんです。それにしても1920年代に建築をイギリスで学んだというのはちょっとめずらしいかもしれませんね。その当時の建築家はみんなドイツのバウハウスやフランスに目がいっていましたから。いわゆるモダニズムを先取して来ようというわけですよね。
◎ そういうことと無縁なところに高橋先生はいたようですね。ドイツを中心とした近代建築の当時の潮流にあって、あえてイギリスという風土で土着的な、田園的なスタイルやデザインを吸収してきたところに、異彩を放っているのでしょうね。
そうですね。同世代の建築家である山口文象はバウハウスに行っています。前川國男や坂倉準三もコルビュジェのアトリエをめざしている。そういった時代でしたからね。そして彼らは帰国してから日本建築界をリードしていく使命があった。そういうことと高橋博は無関係に存在していた。


◎ なるほど、流行していたモダニズムとは違う道を歩んだということなんですね。
ここで少し話題を変えさせていただきますが、高橋ビルの建替えのためにアユミギャラリーはいったん閉鎖して93年に再開。そこで始まった企画展「近代建築史への旅スケッチ展」も第18回目を迎えたわけですが、これは日本中にある古い建物、近代建築を市民一人一人がスケッチすることで残して行こう、保存の声を上げて行こうという運動としてのスケッチ展ですね。他には夏の企画写真展を軸にして、それ以外は貸しギャラリーになるわけですが、ギャラリーとしての企画展を始めたのは、どういう意図からですか?
質問からそれますが、そもそも画廊といわれても、なんとなくそうなってしまったといういきさつだったんですよ。(笑)そう、なんとなくそうなったんです。1984年、当時は神楽坂に画廊はなかった。ここは当時、倉庫兼高橋建築事務所だった。高橋建築事務所といっても実際に仕事をしているのではなく、家作管理のひっそりした事務所でした。僕も画廊にする発想はなかったんだけど、当時の研究室(武蔵美)の先輩が個展のための画廊探しをしていて、銀座から疲れ果ててここに辿り着いた。すると彼は「ああここでいいよ。鈴木くん」と言うから、じゃあ少し片づけてやりましょうと。
でもその当時、僕はここで勝手な真似はできなかったんです。まだ父が健在でしたし、何しろ怖かったですからね。そのへんは脱線してしまいますから省略して、その先輩の話をしてみたら「あぁ、画廊かあ」ということで感触が比較的よくて、なんとなく許可が出たんですよ。結局それで体裁を作ったんでその次は「続けさせてほしい」「馬力を入れてやりなさい」ということで始まりました。
企画展の意図はですね。正直に言えば、画廊のスタートというのは、そんなに直ぐにやってくれる人がいる訳ではないのですよ。今でこそ一年先の予約が入っていますが、開廊当時は自分で企画を立ち上げるしかなかった。「近代建築史への旅スケッチ展」もそうして生まれた。夏の企画写真展は建築写真家の仲間たちが僕たちを応援してくれた結果です。僕の本業は建築設計ですから、画廊のオーナーとしての高邁な理想はなかったといった方が正確ですね。ただ市民に開かれた、誰からも親しまれるギャラリーにしたい、地元根づいた場所にしたいということはあったと思います。

◎ 1984年から約5年間、高橋先生は無言で見守っていてくれたんですね。
そういうことですね。1回も見に来てくれたことはなかったけど、たまに「今、何やってるのかな?」というような会話はしました。それこそ採算度外視の時代でした。
◎ じゃあアユミギャラリーは非常にイレギュラーな形で始まったんですね。高橋先生の黙認下で……。
容認黙認ですね。もうおっかなびっくりでしたよ。さっきも話しましたけれど非常に怖い人だったから勝手なことはできない。僕の実際の父親ではないし。ともかく怖かったね(笑)。明治生まれの建築家ですから。でもね、僕は彼を建築家として尊敬していたし、彼の作品をつぶさに見て、これはすごい人だなと思っていた。共通項が多かった、というより僕は彼の作品によって結局つくられていった部分が大きかった。
◎ 言葉の端々から怖さが伝わってきそうですが、でもそこには人と人とを結びつける、建物のもつ力のようなものがあるのかもしれないですね。
【※1】……『まちと建築を再生する』
| 次のページへ → |







