
◎ さて、1999年あたりからは新たなアート・ムーヴメントを興していますよね。
うーん……、興したの?(笑)。
◎ (笑)神楽坂建築塾と翌年の美術塾・写真塾の話ですよ。特に建築塾はこれまでの修了生が300人以上になりますか?
延べでいうと500人以上になりますね。これもちょっとした偶然からできたんです。
僕の人生はほとんど偶然の連鎖なんです。
◎ そうは思えませんけれど……。
当時、武蔵野美術大学内で組織変更があって、短期大学部と通信教育部がなくなるという話があったわけ。僕はそれに対して寂しさもあったし、そもそもそんな方向性はけしからんと反発もしていた。それを親しい仲間にぐちっていたのかな。そうしたら、当時『住宅建築』誌の編集長だった植久さんに「建築塾をやってみない?」「武蔵美で講義するエネルギーを自分のところでやってみたら」と持ちかけられ、乗せられちゃったこともありますね。
◎ 最初は確か、15〜20人くらい集めてゼミ形式でやるのもいいかな、という軽い感じでしたよね。
そうそう。軽い気持でしたね。1998年の年末の話でした。そんな話をして飲んだわけですが、それから恒例になっている「行方知らずの冬の旅」に出て、正月をかなり回って帰国すると、そんなシビアな話は全部忘れちゃってね(笑)。そんな話したっけ?という感じでした。「もう動き出しているんだよ。鈴木くん」と植久さんが言うので、現実に戻って、応募要項をせっせと作成してメディアを通じて募集した。
◎ これが大反響を呼んだということだったわけですね。
そうなんですよ。もうびっくりしましたね。20人集まるかなと思っていたところに、200人の問い合わせが来た。結局53名の塾生を受け入れて第一期神楽坂建築塾の船出となったわけです。
◎ 武蔵野美術大学でも、結果的には通信教育課程が造形学部に組み込まれて残ることになったんですよね。
そうなんです。通信教育が武蔵美の中で残った、これはね、とてもうれしいことでした。僕もがんばって『まちと建築を再生する』というテキストを書きました。学生だけでなく、一般のみなさんにもぜひ読んでいただきたい本です。
◎ 教職でも二足のわらじになっちゃったということですね(笑)。当時、僕も先生のお手伝いをしていましたから、そのあたりのことはよく理解できるのですけれど、あの時は(建築塾募集時)フタを開けて見ると、建築家はもとより、環境庁の役人とか、家を建てたい市民とか、募集枠に対してすごい応募があったんですよね。問い合わせの電話はなりっぱなし、小論文と申込書が沢山集まって選考が大変だったことを憶えています。
そのキーワードには現代の寺子屋をやろうというのがありましたよね。いまの建築教育に対するアンチテーゼとして、ゴザを敷いて座るということで。「椅子じゃないんだ」とか言ってましたよね。それで「坐学」という言葉を選んだのも憶えてますが、また今の建築のあり方、スクラップ&ビルドの考え方に対して、正面から異論を唱える運動体を作ろうという大きなテーマがありましたよね。それがある程度認知されて、建築界ではそうそうたる講師を迎えて現在も続けられている。さらに2000年から美術塾、2001年からは写真塾も始まり、まさにアートの発信地として動いていると言えるのではないですか。
そういうことになりますかね。もう一つ、まちと建築を実際に歩いて体感して学ぶというフィールドワークを大きな軸に持ってきましたよね。でも建築塾はね、結構骨が折れるんですよ。建築は総合的な面を持って社会と関わっているでしょう。一筋縄ではいかない。ですから、ここらで一つまとめをしておきたいと思っている。「神楽坂建築塾の試み」(仮)というようなことで、今まで活動してきたことを反芻しておきたい。それが明日につながると思っています。
◎ 美術塾はもう少し気楽にやっているんですか?
そうですね。美術塾は気楽にやっています。絵を描くのは楽しいことですからね。建築学科(建築塾)があるから美術学科もあっていいか、という感じで始まりました。写真塾も始めちゃったし、まあ風呂敷広げて自分の首を絞めているようなところもあるんですけどね。まあ、気楽にまちを歩いて絵を描くスクールがあっていいんじゃないかと思ったんですね。少人数でいいやと思ったんだけど、これがまた意外に集まっていますね。美術塾も写真塾(大橋富夫塾長)も20人規模で活動しています。
◎ 美術塾にもかならずまち歩きが入っていますね。そして99年には亡くなった立壁正子さん(タウン誌『ここは牛込、神楽坂』編集発行人)といっしょに、現在の「まち飛びフェスタ」の前身「まちに飛びだした美術館」をスタートさせますよね。あの時は神楽坂の各店舗に作品を飾ってもらおうという大変な話でした。あと坂にロール紙を敷いての「坂にお絵描き」ですね。
立壁さんと江口素子さんが「協力してほしい」と話をしに来て、僕はこんなのはどうかなあと話をしたんだけれど、彼女たちは見事に反応しましたね。「飯田橋から東西線神楽坂駅までの路上でお絵描きをしましょう」という提案だったけれど、彼女たちは700mの紙を調達して、新聞社やテレビ局まで巻き込んでね、大変なことになったんだけれど(笑)。建築塾が始まったところだったんで、塾生もみんな手伝ってくれましたね。
◎ あれは神楽坂の画廊として、アートをギャラリーに押し込めないでまちに広げたいという思いがあったんですか?
そうですね、まちに飛びだした、という命名もその瞬間的なディスカッションの中から生まれたんだよね。「神楽坂にはお店がいっぱいあるんだから、店をみんなギャラリー化しましょう」なんて無責任な話を僕はした。

鈴木さんによる「たつみや」のスケッチ
◎ あの時の参加店のなかには、そのまま作品を飾っているところもありますよね。
ありますね。かなりあるんじゃないですか。たつみや(本多横丁のうなぎやさん)さんの僕の絵(ジクレプリント)もあれからずっと飾ってありますよ。作家がプレゼントしちゃったのもあったしね。あの時蒔いた種はいま考えるときっかけとして大きかったかもしれないね。
◎ 実行部隊としては、大変な思いしかなかったですが(笑)。それが今の「まち飛びフェスタ」につながるわけですよね。ところで先生は神楽坂の中でよく出没するところがありますか?
行く場所は大体決まっちゃうんだけど、ブラッセルズとかキイトス、泥味亭とか、ピエトロとかかな。ワインならルバイヤートかな。最近では西条さんのいるビターとか、もんじゃ焼き、伊太八ラーメンもよく行くなあ。
◎ 飲食関係以外のところでは?
あっ、そうか。白銀公園とか、中町図書館とか、玉の湯とか、熱海湯とか、筑土八幡とか、石畳の路地とか……、最近では赤城下町あたりも歩きますね。とにかく一日一万歩は歩かないと。
◎ おそれいりました。ところで、ピエトロやルバイヤートなど本来絵とは関係ないレストランを先生のプロデュースでギャラリー化していますよね。それも大切なことだと思うんですが。
そうですね。あれもやっぱりただの壁ではつまらないというのと、店の主人のノリが良かったことがあって、絵でも飾ろうか、ということではじまりました。
◎ 僕自身もあそこで展覧会をやったことがあって、会場代はほとんどかからないかわりに、案内する時にはコーヒーのタダ券を作って配って。その払いは僕がするという方式ですね。そもそも画廊というのは借りるのに最低10万円以上かかって、若い作家には大変なんですからすごくいいところなんですよ。さらに展示のために必要なものを先生が無料貸与したりもされていますね。
アユミギャラリーでやると費用はかかるわけです。でもお金はないけど作品はできちゃった、という人がたくさんいるんですね。そういった人たちが気軽に展示できる場所がないとまずい、というのは僕の中にありますね。

◎ それでは最後に、神楽坂に対してこうあってほしい、というような想いを聞かせてください。
地味な話だけど、古いまちだとはいえ、神楽坂は第二次世界大戦でほとんど焼けています。ただ地割りが生きていた。坂が生きていた。路地が生きていた。そこをよりどころに戦後いち早く作られたまちなんです。だから、戦前の時代を継承している部分があると言えるんですね。だからこそ、いま昭和20〜30年代の建物をできるだけ残して整備していくことを考えたい。それが、まちを護るということになるんです。まちの住人それぞれが自分でできる範囲で護っていきたい。僕の場合で言えば、つまりここと横寺の家については死守しようと思っています。戦後から昭和40年代位までの建物や路地のリストを作って、確実に護っていくような方策も立てたい。日進月歩の世の中の波にのまれないように、確実に神楽坂を維持していきたいと思っています。
◎ その建物というのは、豪華な料亭さんばかりでなくて、モルタル造りの家とか木造家屋、そういったものも含まれているんですよね。
ええ、そうです。後継ぎや相続の問題とかいろいろあるとは思うんだけれどね。なんとか残したい。残して創りたい。
例えば神楽坂下のパウワウの一角なんか、まとめて一つのビルにしてしまうのではなくてね。ビルにするにしても、全部更地にして建てるのではなくて、パウワウ(の建物)を残してビルにすることを構想するとか、そういったことを前提とした計画ができなかったのかな、と。残すことを頭に入れて考えると、面白い隙間の空間も生れてくるんだよね。そういえばパウワウにもよく行ったなぁ。携帯電話のない時代から通っていたから、あそこの2階にいると君らが呼びに来たりしましたよね。
聞き手:渡邊義孝/写真:渡部晋也
鈴木喜一●プロフィール
建築家・神楽坂塾主宰・武蔵野美術大学講師。
1949年、静岡県富士宮市生まれ。武蔵野美術大学卒業、教務補助、助手を経て、1980年〜81年、フランスに遊学。ヨーロッパ各地、北アフリカ、中近東を巡る。1984年、鈴木喜一建築計画工房開設及びアユミギャラリーを開廊。1993年〜94年、中国美術学院(中国杭州)客員研究員。
建築実務のかたわらユーラシア全域にわたって独自な旅を続け、プリミティブな人間の風景をじっくり記録している。著書に『大地の家』『語りかける風景』『中国民家探訪事典』『まちと建築を再生する』『日本辺境ふーらり紀行』他多数。
聞き手プロフィール
渡邉義孝
1966年生まれ。鈴木喜一建築計画工房にて住宅設計、民家再生、文化財調査等を担当。2004年風組・渡邉設計室を設立。一級建築士。NPO東京を描く市民の会理事。著書に『風をたべた日々』(日経BP社)、『セルフビルド 家をつくる自由』(旅行人)。
■ホームページなど
鈴木喜一建築計画工房
http://www.ayumi-g.com/ks/
アユミギャラリー
http://www.ayumi-g.com/
1999年、「まちに飛びだした美術館」の記録はこちら
http://www.ayumi-g.com/archive/kagurazaka/machitobi.html






